さとし日記

東大大学院M2。認知科学専攻。考えたこと、感じたことを、シンプルに。メディアでの引用は連絡なしでどうぞ!

この世は複雑 (2/2)

satoshihgsn.hatenablog.com

 

(続き)

 

実際にはどうなのか。純粋に知的好奇心を満たしたい。精神的に充足させたい。よりよく生きるための、よすがにしたい。

 

そんなことを考えながら研究している人が多いのではないかと推測する。

 

現代社会は、特に先進国においては、物質的には充足しつつある。

 

それで人は幸福になっているのか。疑わしい。

 

SNSの普及によって、他人の生活が可視化された。正確に言うのであれば、他人の生活の「一番良いところを、さらに加工した状態」が可視化された。

 

それによって、劣等感を抱く人も増えているのだと思われる。

 

人はどうしても、他人と比較してしまう。それ自体は、必ずしも悪いことではない。

 

良いモチベーションになり、自分の人生をさらに良くするキッカケにもなり得るからである。

 

しかし、負の側面として、どうしても不足感を感じてしまう人もいると思う。

 

他人の生活など見なければ、「それなりに」充実していた人も、このままではいけないのではないかと考えてしまう。

 

美しく整えられた部分がSNS上に集まり、その中で「理想の人生像」が作り出される。

 

そんなものは実際には存在しないのに、その幻想を追いかけてしまう。

 

それで幸せになるわけがない。

 

SNSにはプラスの側面がある。誰しも発信者になることができる。

 

アラブの春」、「#MeTooムーブメント」。これまで声を持てなかった社会的な弱者が、声を上げられるようになった。

 

反権力。自由。個の尊重。そんな面も確かにある。

 

一方で、先に挙げたような、他人との比較などの問題点もある。

 

さらに、情報の拡散のされ方にも特徴がある。

 

単純で過激な物言い。情緒、特に怒りの感情を煽るような発信は拡散されやすい。

 

内容の妥当性よりも、キャッチーでわかった気になりやすいものが、支持を受け得る。

 

FacebookTwitter(現X)が出現した際に、「これで民主主義がアップデートされる。個々人の声がより政治に反映されやすくなる」といった意見もあった。

 

果たして当時思い描いたような社会になっているのか。極めて疑わしい。

 

良し悪しはさておき、これが現実である。現実から目を背けてはならない。

 

「かくあるべし」という理想を並べることも大いに結構。しかし、現実との折り合いもつけなければならない。

 

あらゆるビジネスにおいて、SNSの活用は不可欠となりつつある。SNSで受けるものが、人類史にとって有意義なものになるのか。

 

「古典」として残るようなものになるのか。必ずしもイコールであるとは言えない。それは殆どの人が了解していることだと思う。

 

それでも生活も成立させないといけない。短期的な評価と、長期的な評価。

 

前者は生活のため、後者はやりがいのためとも言えるかもしれない。

 

もちろん、ここも完全に二分はできない。

 

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この世は複雑 (1/2)

物事には多面性がある。「AかBか」で悩んだとき、「AかつB」が答えになることもある。

例えば、「理論と実践、どちらが重要か」。おそらく「どちらも重要」である。

本来トレードオフでないもの、二項対立にならないものを、そのように扱ってしまうことがある。

その方が、認知的な負荷が低いからなのかもしれない。物事は複雑である。しかし、そのような曖昧さ、不確実さに耐え切るのは難しい。

なので、単純化する。その方が短期的にはうまくいくこともある。なぜなら、行動に繋がりやすいから。考えてばかりいては、行動が抑制され得る。

さらに、過度な単純化、バイアスであっても、「言い切る人」に、カリスマ性を見出す人も多い。

「決断力がある」、「ハッキリしている」と。一方で、考える人は、優柔不断だというレッテルが貼られやすい。実際、短期的には、損をすること、チャンスを逃すことも多いのだと思う。

どちらが良いのか。そのようなことを考えるのだとしたら、その問い自体が誤りだと思う。

元々、世の中は複雑である。しかし、一定程度、単純化することが黙認されてきた。

「男性/女性だから」、「子ども/大人だから」。そのような一般化が、日常的に用いられてきた。

今の世の中では、許されなくなりつつある。

「多様性」とは、すなわち、過度にグループ分けせず、その人をそのまま捉えようということだと思う。

だとすれば、認知的は負荷は当然上がる。100人の男性を全て、「男性」で括るのか。あるいは、個人として100人それぞれを認識するのか。

後者の方が複雑であることは、言うまでも無い。望むとも、望まざるとも、そのような時代を生きている。

極右や極左が生まれるのも無理はない。なぜなら、どちらも単純化した結果だからである。

本来は、是々非々で物事を決めるべきだと思う。しかし、その手間と労力を省くために、「ポジション」を取る。

そのポジションも、両極端に振れたものになる。それが良いとは思っていない。ただ、現実として、そのようになっていると思う。

社会が分断するのも、無理はない。クラスターが細分化すればするほど、どこかに「バックラッシュ」が起こり得る。

グローバル化、多様性を重んじる人がいる一方で、ナショナリズムに向かう流れもある。

いわゆる「Woke」と、「MAGA」の分断。これは当分の間、続くと思われる。

Wokeismと揶揄されるのは、程度問題として、行き過ぎているからだと思う。

個人的に、自由や権利を重んじる流れは、大いに歓迎したい。一方で、その反動が社会のどこかで起きているのも事実。

自由や権利を尊重することの先には、個々人のより良い人生、幸福が待っているべきだと思う。

しかし、上で議論したように、必ずしもそうはならないのが社会の難しさ。

当然、簡単な答えなどない。どうすれば良いのか、自分もわからない。しかし、ここで思考を放棄すべきでないこともわかる。

ここでも、曖昧さに耐えないといけない。「これさえやれば大丈夫」なんてものは存在ない。何度でも繰り返すが、現実は複雑。どこまでも不可解。

静的な「答え」を探すのではなく、動的な「答えに至るまでの過程」が大切なのだと思う。

“Closer to Truth”、”Less wrong”の考えである。過程が大切というのは、人生全般に対しても言えることだと思う。

人は死ぬ。しかし、死ぬ「ために」生きているわけではない。なぜなら、直ちにその目的を果たそうとする人は、殆どいないからである。

最期に至る過程こそが、人生。日本国憲法第13条に規定される「幸福追求権」も同様の考え方だと思っている。

つまり、「幸福」は追求するものであり、「到達」するものではない。

だからこそ、個々人が、それぞれの「幸福」を追い求める必要がある。

「上」から与えられるものではない。絶対的な権力を持った人が、「これさえあれば良いんでしょ」と、「分け与える」ものではない。

それでは、いくら物質的に満たされていても、精神的には満たされないのだと思う。

もちろん、物質的な豊かさも必要。それは、「上」から与えられても良い。しかし、それだけでは十分ではない。

やはり、自分なりの「幸福」を追求過程にこそ、「幸福」があるのだと思う。

「幸福」は静的な概念ではない。動的な概念だと思う。

社会的な分断に対し、「答え」がないことを議論した。それでも、「答え」を模索し続けることが大切なのだと。

「幸福」ないし、「自由」などもそう。「概念」には、定義より実態がない。

それでも概念の提示、いわゆる「コンセプト・ワーク」が大切だと思うのは、追求する方向性を指し示すことになるから。

大袈裟に言い換えるのであれば、生き方の提示である。

学問に対し、「それは何に使えるの?」と問う人は多い。特に、基礎科学や、概念的なこと。例えば哲学に対してである。

その問いに対し、「応用に繋がる」と答えることもできる。確かに間違えていない。しかし、どこか誤魔化している感じがある。

相手を納得させるため、さらに強く言うなら、黙らせるための回答。

(続く)

 

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同性婚には賛成だが、そのためには憲法24条は改正されるべきだと思う

同性婚には賛成だが、そのためには憲法は改正されるべきだと思う。

 

日本国憲法第二十四条第一項には次のように記されている。

 

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

この「両性の合意のみ」を、同性同士とも解釈できるというのは、流石に無理があると思う。

 

これは、「改憲/護憲」、「保守/リベラル」などといった政治的議論ではなく、素朴な日本語の問題。

 

憲法を、一部の「専門家」にしか解読不可能な文章にすべきではないと思う。

 

「両性の合意のみ」を、「両者/双方/二人の合意のみ」などと改めるべきだと思う。

アウトプットすることが、学習において、もっとも効率の良い手段の一つであることには、殆ど疑いの余地がない

アウトプットすることが、学習において、もっとも効率の良い手段の一つであることには、殆ど疑いの余地がない。しかし、特に日本においては、インプット中心の学習が行われている。

 

たくさんインプットすれば、質の良いアウトプットが生まれるのか。そうではないのだと思う。

 

むしろ、アウトプットがあるからこそ、インプットの精度が高まる。

 

しかし、日本の教育はそうはなっていない。おそらく、原因の一つには、人口密度の高さが挙げられる。

 

とにかく人が密集している。人目につく。そうであれば、質の低いものは外に出せない。恥を感じてしまうので。

 

その結果、徹底的に質を上げ続け、「完成品」のみを外に出す。

 

職人芸の世界。これで高められる技能もあるのかもしれないが、少なくとも効率は良くない。

同じ内容の動画は何度作っても良い

とあるYouTuberの方が、「同じ内容の動画は何度作っても良い」と言っていて、なるほどなと思った。

 

曰く、チャンネル登録者であっても、全ての動画を見ている人は少ないし、新規視聴者もいるから、人気の内容は何回作っても問題ないとのこと。

 

これは、特定個人とのコニュニケーションと、不特定多数とのコミュニケーションの違いだと思う。

 

特定個人に対して、同じ話をするのは望ましくないが、不特定多数に対してであったら良い。

必要に駆られる前に、変わり続けること

たまには普段と異なる場所で作業をする。カフェなり、図書館なり。

 

人は外界の環境から、多分に影響を受けているはず。

 

いつもと同じルーティンをこなすことも大切だが、同時に新規の刺激を入れることも大切だと思う。

 

必要に駆られる前に、変わり続けること。これは、あらゆることに言える。

今後は、中国のアリババのように、独自の国内経済圏を構築していくのだろうか

商業施設などのポイントカードが、続々とLINEポイントに置き換わっている。

 

サービス提供者としても、消費者としても、その方が便利なのだろうけど。

 

どこか物寂しさのようなものもある。

 

とにかくメッセンジャーアプリを抑えてしまうと強い。いかにようでもビジネスを展開できる気がする。

 

今後は、中国のアリババのように、独自の国内経済圏を構築していくのだろうか。