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自分の行動は、ある程度コントロールできるが、結果はコントロールしきれない

自分の行動は、ある程度コントロールできるが、結果はコントロールしきれない。
両者は明確に切り分けるべきだと思う。
これは、勉強でも、仕事でも言えること。しかし、最近の社会では、やたらと「計画」を立てさせる。
「学習計画」、「研究計画」、「事業計画」。もちろんそれらに意味がないわけではない。
計画を立てることで論点の見極めをすることができたり、多くの人が関わる場合、意思決定の速度を上げ精度を向上させることにも寄与するかもしれない。
ただ、あくまでも計画は計画である。必ずしもその通りに行くわけではない。
そのようなためらいがどの程度あるのか、そこが問題だと思う。
計画を立てるのは大いに結構だが、その通りに行くとは限らないと思っておくことが大切だと思う。
「ああすればこうなる」という思い通りにいかないのが、現実の世界の複雑さだと思う。
物事を決定する要因は無数にある。当然のことながら人間が全て把握しきれるようなものではない。
無意識とは定義より意識できないものである。しかし確かに存在することも事実である。
意識的な活動においては、無意識は徹底的に無視される。無意識を意識できないのは仕方がないが、無意識が存在すること自体は意識しなければならない。
例えば、教育においてもこのような傾向は見られる。この授業を受けさせたら、このような能力が身につく。
こういった活動をすれば、こういった人間になる。そういった「カリキュラム」が組まれることも少なくない。
確かに、たくさんの生徒にその教育を受けさせれば、統計的にはある一定の能力が身につく傾向が見られるかもしれない。
しかし、個人というのは統計ではない。個人は集団の平均の傾向が見られるわけではない。
個人とは例外の塊である。例外の塊である個人が集まると、ある傾向が見られる。
しかし、その傾向というのはその集団を構成する個々人に必ずしも見られるとは限らない。
人間はそれほど単純ではない。家庭や学校で教えられる情報のみに接しているわけではない。
むしろそういった場所で得られる情報というのは、極めて例外的とも言える。
人間の活動においては、あらゆる人と関わり、あらゆる情報に接している。
それにもかかわらず、学校あるいは家庭という、ごくごく限られた環境における教育指導で、子供をコントロールできると思うのは誤りである。それはおそらく、根底には支配欲のようなものが現れているのかもしれない。
子供というのは大人の思い通りにコントロールすることができる。そういった存在であると根底ではみなしている可能性がある。
実際には、様々なことを試してみるしかない。これをやったら必ずこういった結果になります、なんてことは現実にはありえない。なので徹底的に管理しようとするのではなく、手入れをするような感覚である。
例えば、盆栽で木を曲げようとする時、力を加えすぎると折れる。徐々に少しずつ力を加えていくしかない。
人間に対しても同様だと思う。行動を促すことはできても強制することはできない。
仮に、表面上強制することはできたとしても内心は反発を招く。
力で押さえつけるのは極めて安易な手段である。やるエネルギーもかからないし時間もかからない。
手っ取り早く自分の思い通りにコントロールすることができる。しかしそれが本当に有効なのか、さらに人間としてふさわしい行動なのか、そこは考える必要があると思う。
楽をすると必ずどこかでツケを払うことになる。
相手をコントロールしようと思うことを、物事を自分の思い通りに動かすことができると思うこと、それはある種の怠慢だと思う。現実世界の複雑さから目を背けている。
人間の小さな脳みそで、なぜそのようなことができると思うのか。そこには、知的な謙虚さがない。
極めて傲慢な考え方だと思う。
繰り返し強調しておくが、計画を立てること自体が悪いと言っているのではない。
計画とは方向性を見定めるためには、重要なことだと思う。
特に集団の結束を高めたり意思決定の速度を上げるためには、一定の指針を掲げなければならない。
そのことの意味は重々承知しているつもりである。
しかし、計画はあくまで計画である。現実がその通りに行く保証はない。
現実を見ながら計画も修正されていかなければならない。
「こうなるはずだ」という考えにとらわれるのではなく、現実からのフィードバックを踏まえて、フレキシブルに対応していかなければならない。
そのように考えて行動を変えていくことをしなければ、それは宗教の領域に入ると思う。
原理主義的な態度である。「こうなるはずだ、なぜならこのような計画を立てたから」。
それで現実から目を背けてしまっては、生きていることにはならない。
そのような考えは、イデオロギーの中を生きている。
イデオロギーとは現実に比べれば単純である。あくまで概念なので。
現実にはもっと複雑な要素が組み込まれている。思い通りには動かない、それが現実の複雑さだと思う。
何でもかんでも計画通りに行く。思い通りに行く。
そのように思ってしまうと、閉塞感が漂う。希望が持てない。
特に子供は、未来に希望が持てなくなるように思う。
一定の秩序を保ちながらも混沌を容認する。意識と無意識のバランスを保つ。
人工と自然のバランスを保つ。そのような感覚が大切なのだと思う。
特定の文脈に最適化するのは意識の仕事である。無意識とは文脈を超える活動だと思う。
そうは言っても社会はすぐには変わらない。他人を変えることもできない。
ならば、自分から変わるしかない。社会の中で生きる以上、そのルールに合わせなければならないこともある。
それでも、内心「意味ないよな」と思いながらやるのか、真に受けてしまうのか。
それによって、ちょっとした行動にも変化が出てくると思う。
正面から異を唱えなくても、抵抗する手段はある。
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日本の英語教育、そして教育一般についての考察

英語は、学問ではなく、単なる言語。もちろん、言語学の文脈で捉えることもできるが、それはむしろ例外的な営みだと思う。
とにかく使えれば良いのだと思う。「習うより慣れよ」の領域。
単語や文法に重きを置きすぎない方が良いと思う。その点で、日本の英語教育は最悪に近いと思う。
「broken English(崩れた英語)ではダメだ」という反論もあると思う。しかし、それは的を外しているように感じる。
言語の正しさとは何か。それは、論理的なものではなく、統計的なものだと思う。
つまり、「みんなが使っているもの、意味が通じるもの」が正しい。
例えば、同じ日本語であっても、平安時代と令和時代ではずいぶん異なるものになっている。
「どちらが正しい」といった話ではない。時間発展していく系なのだと思う。
だから辞書も後追いになる。辞書で定義されているから、人が使う訳ではない。
人が使っているものが、辞書に掲載される。これが、自然言語とプログラミング言語の間の、大きな差異点の1つだと思う。
実践が最重要。補助的に単語や文法をやったとしても、それが中心に来るべきではないと思う。
しかし、厄介なのは、日本人を取り巻く環境。日本で生活する限り、日本語さえできれば殆ど困ることはない。
経済も縮小しているからといって、それでも未だ一億人の人口を有する。
例えばお隣韓国であれば、人口が日本の半分ほどしかない。国内だけの市場に注目するには、やや心許ないところがある。
それゆえ、初めからグローバルの市場を見ている。韓国の人が、諸外国語、例えば、英語、中国語、日本語を話せることが多いのは、この辺りに理由があると思う。
そのようなマインドがあるから、K-POPをはじめ、世界的にヒットするようなコンテンツを作ることができる。
日本には、それがない。しかし、今後は変わっていくかもしれない。
なぜなら、人口が減少しているから。それに伴い、経済も縮小する。
英語もできて当然という流れになっていくのかもしれない。あるいは、二極化が進むか。
二極化が進むとしたら、地元を愛する「マイルドヤンキー」的な人と、グローバルな文脈に身を置く人。
そのような形になるのかもしれない。
当然、どちらが良い悪いという話ではない。それぞれの人には、それぞれの生存戦略がある。
前者の人は、人的な資本を重んじる。後者の人は、経済的な資本を重んじる。そんな傾向があるのかもしれない。
最近では、英語だけでなく、プログラミングも学ぶ流れになっているように感じる。
小学校でも学ぶようになっているらしい。
プログラミングも、できないよりは、できたほうが良いだろう。
しかし、英語と同様、プログラミングも「手段」に過ぎない。
作りたいものという「目的」がないのに、学ばされて、本当に身に付くのかは疑わしい。
最低限のリテラシーの底上げという意味では、ある程度は機能するかもしれないが、それによって多くのプログラマーが生まれるかはわからない。
また、外国語の翻訳が翻訳ソフトでできるようになってきたのと同様に、プログラムの生成も、生成AIで行えるようになってきている。
勿論、それらを使いこなすためには最低限のリテラシーは必要ではある。しかし、何より大切なのは自分が何を作りたいと言うモチベーション、 動機づけだと思う。
与えられた問題を素早く正確に解くことに終始する日本の学校教育においては、根本的に欠けている視点だと思う。
教育改革と言いながら、英語の早期教育や、プログラミング教育を行っているが、やはり根本にある考え方が変わらない限り、教育は変わらないと思う。
今現在行われている改革は、どれも根本的なものではなく、表面的なもののように感じられる。
「グローバル化だから英語学ぶ」、「IT化だからプログラミングを学ぶ」。それらは、社会の変化に対して反応しているだけである。
内側から湧き出るようなモチベーションは無い。
それはほんとに教育としてふさわしい形なのだろうかと疑問に思う。
さらに言うならば人としてふさわしいあり方なのだろうか。
今一度考えるべき時に来ていると思う。
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無意識と意識の関係:メタ認知と意識的な生き方

自分の無意識が何を欲してるのか。それをメタ認知する必要があるのかもしれない。 無意識は定義より意識できない。しかし、確かに存在する。
無意識と意識は二項対立ではなく、関係し合っていると思う。 意識の世界の中を生きている気になっているが、それは必ずしも無意識を無視して良い訳ではない。
むしろ、無意識を耕していくことこそが、意識的な意思決定の質をも向上させていくのだと思う。 具体的に何をすれば良いのか。それを考えるのは難しい。なぜなら、上述の通り、意識できないからである。
しかし、感覚的にはわかると思う。自分が何を欲しているのか。だからと言って、欲望に流され続ければ良い訳でもない。 「善い」欲望を満たすことが大切だと思う。自堕落で、刹那的な生き方をすれば良い訳ではないと思う。
人間の欲望、アニマルスピリッツは面白い。最近では、資本主義の次なる在り方が議論されることが増えてきた。 曰く、十分量の富がすでにあるのだから、次はいかにそれを分配していくかが大切であると。
それは確かにそうかもしれない。しかしながら、人の欲求とはそれほど単純なものなのか。 さらなる富を求めてしまうものではないかと思う。
一生、生活に困らないだけの財産がありながら、さらなる財産を求めて人生を破綻させてしまう人もいる。 目先の利益を優先して、人間関係や健康をも犠牲にする。
それが良いとは思わないけど、現実として、そのような側面があると思う。 人には社会的な側面だけでなく、生物学的な側面がある。言い換えるのであれば、動物的な側面。感情的な側面。
そのような側面があることを前提に、社会の制度設計を行わなければならない。 理性的、論理的なコミュニケーションというのは、むしろ例外的とも言えるのかもしれない。
イレギュラーなこと、不合理なことをしてしまうのが、人間というのもだと思う。 「理論」という骨組みをしっかりと持ちながら、「実践」的な柔軟な考えも持たなかればならない。
これは両輪である。理論に偏りすぎると、柔軟性を失う。変化に対応できなくなってしまう。 一方で、「実践」だけだと、その場しのぎになってしまう。どこかで超えてはいけない「一線」を超えてしまう。
だから両方が大切なのだと思う。
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出生率の低下は悪いことなのか?

2024年6月中旬、女性の合計特殊出生率が1.20と過去最低を記録したというニュースが大きく報じられました。これについて少し考えていることをお話ししたいと思います。
社会のレベルでの影響
まず、社会のレベルで考えると、出生率の低下は確かに問題です。人口は経済力や軍事力に直結するため、国としては経済的にも軍事的にも強くなければならないからです。そのため、政治家は少子化問題に対して全力で取り組んでいると思います。
個人の選択と社会的プレッシャー
一方で、個人のレベルで考えると、子どもを持たない、あるいは少ない子どもを持つという選択が本当に悪いことなのか疑問に思います。これまで、社会的なプレッシャーや親からの圧力で結婚や子どもを持つことを選択した人も多かったと思います。しかし、全員がそれで幸せとは限りません。子育ては経済的にも時間的にも大きな負担が伴います。それでも幸せだと思う人はそれで良いのですが、そうでない人も少なくないはずです。
ジェンダー役割と自由
特に女性にとっては、結婚や子育てに伴い仕事を辞めることが一般的でした。しかし、経済的に依存することで、弱い立場に置かれ、時にはDVなどの問題にも直面することがあります。だからこそ、現代では結婚しない、子どもを持たない、自分のキャリアを優先するという選択が増えており、それは一人の人間の権利を考えた上で悪いことではないと思います。
政府の対応と個人の自由
政府は子どもを持ちたいが経済的理由や身体的理由で持てない人々をサポートし、彼らが子どもを持てる環境を整えるべきです。しかし、出生率の低下が悪い側面ばかりが強調されるのはフェアではないと思います。もちろん、国レベルで見れば問題ですが、個人の自由や尊厳を考えると、必ずしも悪いことばかりではないというのが私の考えです。
※ 上記の文章は、standfm (https://stand.fm/channels/62523cd67cd2c74328dc0e91 )にて、2024年6月13日に配信した内容の文字起こしです。
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境界線を越えて学ぶ:日本と世界の融合

「出羽守」などと言わずに、もっと海外から学ぶ姿勢を持った方が良いと思う。そうすることで日本の良さも再認識できる。
そもそも日本と海外との間に認知的な境界線を引く必要性はないと思う。
良いものを学ぶ。それが国内だろうが、国外だろうが。それなのに何故か国内のことばかりに注目しがち。不思議。今は言語の壁も簡単に越えられるのに。
自分以外の人と関わることで、自分について知ることができる。それは個人レベルでも、社会レベルでも同様だと思う。殻にこもる必要はない。
「出羽守」などと言わずに、もっと海外から学ぶ姿勢を持った方が良いと思う。そうすることで日本の良さも再認識できる。
— さとし (Satoshi) (@satoshihgsn_jp) 2024年6月10日
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出生率低下の影響と多様な生き方の認知

国単位で見たら、出生率の低下は致命的な問題だと思う。経済力、軍事力と直結するので。政治家の立場だったら、全力で支援策を講じるべきだと思う。
一方で、個人レベルではどうか。「子供を持たなくても良くなった」とも言えるのかもしれない。もちろん、本当は子を持ちたいが、経済的、身体的な理由で持てない人もいるとは思う。
ただ、これまでは「子を持つことが普通」、「子を持たないことは変」という雰囲気があったのかもしれない。その圧力に屈して、本当に望んでいる訳ではないが、持つことになったという人も少なくない気がする。
繰り返しだが、子を持ちたいが、様々な理由により持てないという人に対する支援は必要だと思う。他方、少子化には、「多様な生き方が認められるようになった」という側面もあるのかもしれない。
国単位で見たら、出生率の低下は致命的な問題だと思う。経済力、軍事力と直結するので。政治家の立場だったら、全力で支援策を講じるべきだと思う。
— さとし (Satoshi) (@satoshihgsn_jp) 2024年6月8日
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