さとし日記

東大大学院M2。認知科学専攻。考えたこと、感じたことを、シンプルに。メディアでの引用は連絡なしでどうぞ!

この世は複雑 (1/2)

物事には多面性がある。「AかBか」で悩んだとき、「AかつB」が答えになることもある。

例えば、「理論と実践、どちらが重要か」。おそらく「どちらも重要」である。

本来トレードオフでないもの、二項対立にならないものを、そのように扱ってしまうことがある。

その方が、認知的な負荷が低いからなのかもしれない。物事は複雑である。しかし、そのような曖昧さ、不確実さに耐え切るのは難しい。

なので、単純化する。その方が短期的にはうまくいくこともある。なぜなら、行動に繋がりやすいから。考えてばかりいては、行動が抑制され得る。

さらに、過度な単純化、バイアスであっても、「言い切る人」に、カリスマ性を見出す人も多い。

「決断力がある」、「ハッキリしている」と。一方で、考える人は、優柔不断だというレッテルが貼られやすい。実際、短期的には、損をすること、チャンスを逃すことも多いのだと思う。

どちらが良いのか。そのようなことを考えるのだとしたら、その問い自体が誤りだと思う。

元々、世の中は複雑である。しかし、一定程度、単純化することが黙認されてきた。

「男性/女性だから」、「子ども/大人だから」。そのような一般化が、日常的に用いられてきた。

今の世の中では、許されなくなりつつある。

「多様性」とは、すなわち、過度にグループ分けせず、その人をそのまま捉えようということだと思う。

だとすれば、認知的は負荷は当然上がる。100人の男性を全て、「男性」で括るのか。あるいは、個人として100人それぞれを認識するのか。

後者の方が複雑であることは、言うまでも無い。望むとも、望まざるとも、そのような時代を生きている。

極右や極左が生まれるのも無理はない。なぜなら、どちらも単純化した結果だからである。

本来は、是々非々で物事を決めるべきだと思う。しかし、その手間と労力を省くために、「ポジション」を取る。

そのポジションも、両極端に振れたものになる。それが良いとは思っていない。ただ、現実として、そのようになっていると思う。

社会が分断するのも、無理はない。クラスターが細分化すればするほど、どこかに「バックラッシュ」が起こり得る。

グローバル化、多様性を重んじる人がいる一方で、ナショナリズムに向かう流れもある。

いわゆる「Woke」と、「MAGA」の分断。これは当分の間、続くと思われる。

Wokeismと揶揄されるのは、程度問題として、行き過ぎているからだと思う。

個人的に、自由や権利を重んじる流れは、大いに歓迎したい。一方で、その反動が社会のどこかで起きているのも事実。

自由や権利を尊重することの先には、個々人のより良い人生、幸福が待っているべきだと思う。

しかし、上で議論したように、必ずしもそうはならないのが社会の難しさ。

当然、簡単な答えなどない。どうすれば良いのか、自分もわからない。しかし、ここで思考を放棄すべきでないこともわかる。

ここでも、曖昧さに耐えないといけない。「これさえやれば大丈夫」なんてものは存在ない。何度でも繰り返すが、現実は複雑。どこまでも不可解。

静的な「答え」を探すのではなく、動的な「答えに至るまでの過程」が大切なのだと思う。

“Closer to Truth”、”Less wrong”の考えである。過程が大切というのは、人生全般に対しても言えることだと思う。

人は死ぬ。しかし、死ぬ「ために」生きているわけではない。なぜなら、直ちにその目的を果たそうとする人は、殆どいないからである。

最期に至る過程こそが、人生。日本国憲法第13条に規定される「幸福追求権」も同様の考え方だと思っている。

つまり、「幸福」は追求するものであり、「到達」するものではない。

だからこそ、個々人が、それぞれの「幸福」を追い求める必要がある。

「上」から与えられるものではない。絶対的な権力を持った人が、「これさえあれば良いんでしょ」と、「分け与える」ものではない。

それでは、いくら物質的に満たされていても、精神的には満たされないのだと思う。

もちろん、物質的な豊かさも必要。それは、「上」から与えられても良い。しかし、それだけでは十分ではない。

やはり、自分なりの「幸福」を追求過程にこそ、「幸福」があるのだと思う。

「幸福」は静的な概念ではない。動的な概念だと思う。

社会的な分断に対し、「答え」がないことを議論した。それでも、「答え」を模索し続けることが大切なのだと。

「幸福」ないし、「自由」などもそう。「概念」には、定義より実態がない。

それでも概念の提示、いわゆる「コンセプト・ワーク」が大切だと思うのは、追求する方向性を指し示すことになるから。

大袈裟に言い換えるのであれば、生き方の提示である。

学問に対し、「それは何に使えるの?」と問う人は多い。特に、基礎科学や、概念的なこと。例えば哲学に対してである。

その問いに対し、「応用に繋がる」と答えることもできる。確かに間違えていない。しかし、どこか誤魔化している感じがある。

相手を納得させるため、さらに強く言うなら、黙らせるための回答。

(続く)

 

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